ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生涯を簡単にまとめたものと年表です。
【3分】で読めるモーツァルトの生涯
神童誕生
1756年神聖ローマ帝国ザルツブルクにてヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト誕生。
ザルツブルクの宮廷音楽家だった父レオポルトには7人の子供がいました。しかし成人したのはヴォルフガングと5歳上の姉ナンネールの2人のみ。
姉の影響でヴォルフガングは3歳でクラヴィーアを弾き始め、5歳にして作曲を開始。クラヴィーアの才能のあった姉ナンネールと共にヴォルフガングは「神童」と呼ばれます。
モーツァルト家の演奏大旅行
息子の才能に気づいた父レオポルトは、その才能を知らしめるべく息子を貴族や王族の前で演奏させます。神童は温かく迎えられ父は社会的・金銭的に成功する可能性を察知。以降長期にわたる演奏旅行が続きます。
父レオポルトと母アンナ・マリアが2人の子供を率いて行った大旅行は、ヴォルフガングが6歳~10歳のとき。神童の演奏は各地で絶賛されました。
なお姉ナンネールは優れたクラヴィーア奏者でしたが、演奏旅行でヴォルフガングの伴奏役に回るようになり、次第に弟の影に隠れていくようになります。
子供を見世物にする父レオポルトに対する批判もありました。また長旅が幼いヴォルフガングに負担を強いた可能性も否定できません。しかしザルツブルクに留まらず、世界各地の音楽を幼いモーツァルトが耳に触れた事は、のちの大きな飛躍につながります。
モーツァルトは35年という短い生涯で計17回の大小の旅をしました。その長さは彼の人生の3分の1に匹敵するほどです。
逆風
モーツァルト親子が3度めのイタリア旅行からザルツブルクへ戻った翌日、彼らの最大の理解者で支援者だった「寛大な大司教」が亡くなりました。その後任となったのがヒエロニムス・コロレド。
コロレド大司教は前任者ほどモーツァルト親子に寛容ではありませんでした。ただし当時の音楽家は芸術家という扱いではなく、あくまでも宮廷につかえる立場。そのためコロレドの処遇は宮廷音楽家に対する普通のものでした。しかし自分の意に沿わない仕事をさせられることに耐えられないヴォルフガングはザルツブルクを飛び出します。
新しい就職先を求め母と欧州を転々とするヴォルフガング。マンハイムでのちに妻となるコンスタンツェがいるウェーバー一家と出会います。
パリを訪れたヴォルフガングと母。しかしかつて称賛された神童の姿はもはやなく、ヴォルフガングを雇おうとする王族や貴族はいません。長旅の疲れかパリの宿で母が死去。失意のうちにヴォルフガングはザルツブルクへ戻ります。
フリーの音楽家へ
帰郷したヴォルフガングは、ザルツブルク宮廷楽団に再就職。これには父レオポルトのとりなしがありました。コロレドはウィーン滞在中にヴォルフガンングを呼び寄せます。ウィーンでのモーツァルトの評判は上々でした。しかし自分を僕のようにしか扱わないコロレドにヴォルフガングの神経は逆撫でされ、ヴォルフガングとコロレドは大喧嘩。再就職から3年後ヴォルフガングはコロレドと決裂し、ウィーンで史上初のフリーの音楽家になります。
コンスタンツェと結婚
フリーの音楽家になったヴォルフガングはウェーバー家のコンスタンツェと交際を開始。ヴォルフガングは父レオポルトに結婚の許しを何度も請いますが、いくら待てども返事は来ず、許しのないまま2人はシュテファン大聖堂で結婚。結婚式にヴォルフガングの親族は一人も参加しませんでした。父の許しが届いたのは結婚の翌日のこと。
結婚の翌年ヴォルフガングはコンスタンツェを連れてザルツブルクに戻りますが、結婚を喜ばない父と姉との溝は埋まらず。以降、ヴォルフガングがザルツブルグに生涯戻ることはありませんでした。
父の死と経済的困窮
ヴォルフガングとコンスタンツェの結婚から3年後、父レオポルトがウィーンを訪問。父と子は和解。この時がヴォルフガングの人気の頂点でした。その2年後、レオポルトがザルツブルクで死去。
ウィーンではトルコとの戦争が膠着状態、財政難に陥ったフランスでは革命の足音…と貴族たちの関心が音楽から政治や社会情勢に移っていく中、ヴォルフガングは演奏会の予約も入らず借金を無心するようになります。さらにヴォルフガングの上演を後押ししてくれた皇帝フランツ・ヨーゼフ2世の死、とヴォルフガングを取り巻く状況が悪化していきます。なおヴォルフガングの経済的困窮については、収入が激減したほか本人の賭博や夫婦の贅沢癖によるもの、という説が有力。
魔笛の成功、同年死去
1791年9月オペラ「魔笛」初演。魔笛の成功はヴォルフガングを再び幸運へと導くかに思われました。しかしすでに9月に体調を崩し11月に悪化。依頼を受けたレクイエムの作曲に取り組んでいる最中に病床に臥し、12月5日ウィーンで死去。その翌日共同墓地に葬られました。場所はウィーン郊外にあるザンクト・マルクス墓地。ここには石碑がありますが、「モーツァルトが埋葬されたであろうと思われる場所に建てた碑」であり、正確な埋葬場所は不明です。
年表
西暦(年齢) | モーツァルトの生涯 | その他 |
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1756年 (0歳) | ・神聖ローマ帝国・ザルツブルクで1月27日誕生。宮廷音楽家レオポルトの7番目の末っ子 ・父レオポルト「ヴァイオリン奏法」出版 | ・7年戦争(1756~63年) |
1759年 (3歳) | ・特に教えられたわけでもなく姉ナンネールのクラヴィーアを聴いて三度の和音を同時に弾く | |
1760年 (4歳) | ・父からクラヴィーアを習う | ・イギリス産業革命(~1840) |
1761年 (5歳) | ・初めての作曲「アンダンテ ハ長調 K.1a」 | |
1762年 (6歳) | ・ミュンヘン、ウィーンへ演奏旅行 ・ウィーンのシェーンブルン宮殿でマリア・テレジア御前演奏。ヴォルフガングが7歳のマリー・アントワネットに求婚した逸話があるが、真偽不明。 | ・後の妻、コンスタンツェ・ウェーバー誕生 |
1763年 (7歳) | ・ザルツブルク帰郷 ・パリ・ロンドン旅行へ。パリ到着 | |
1764年 (8歳) | ・ロンドンで21歳年上のヨハン・クリスチャン・バッハに出会い、直に学ぶ機会を得る | |
1765年 (9歳) | ・オランダへ渡る(予定にはなかったがオランダ駐英大使の熱心な懇願により) ・ヴォルフガングとナンネール、重症のチフスにかかる ・初の交響曲「変ホ長調第1番K.16」作曲 | ・ヨーゼフ2世皇帝即位。マリア・テレジアと共同統治 |
1766年 (10歳) | ・ザルツブルク帰郷 | ・プラター公園開放 |
1767年 (11歳) | ・初の劇音楽「第一誠の責務K.35」作曲 ・第2回ウィーン旅行(ハプスブルク家皇女の結婚により、作曲の受注がないかと父レオポルトが期待) ・天然痘にかかる | ・サリエリがウィーンへ |
1769~1770年 (13歳~14歳) | ・第1回イタリア旅行 ・ローマ教皇より黄金拍車勲章を授与 | ・1770年、マリー・アントワネットがフランス王室へ嫁ぐ |
1771年 (15歳) | ・第2回イタリア旅行 | |
1772年 (16歳) | ・ザルツブルク宮廷楽団の有給コンサートマスターに ・第3回イタリア旅行 | ・コロレドがザルツブルク大司教就任 |
1773年 (17歳) | ・第3回ウィーン旅行 ・マリア・テレジアに拝謁 | |
1774年 (18歳) | ・ミュンヘン旅行 | ・フランスでルイ16世即位 |
1775年 (19歳) | ・ザルツブルク帰郷。以降、約2年半故郷ザルツブルクで過ごす | ・アメリカ独立戦争 |
1777年 (21歳) | ・ザルツブルクの宮廷音楽家を休職 ・母とマンハイムへ求職旅行 ・ウェーバー家のアロイズィアとの恋愛 | |
1778年 (22歳) | ・マンハイムからパリへ求職旅行 ・母がパリで死去 | ・ヨーゼフ2世の「ドイツ語オペラ劇場」構想 ・ベートーヴェン、ピアノ奏者としてデビュー ・フランス、アメリカ合衆国を承認 |
1779年 (23歳) | ・アロイズィアに失恋 ・ザルツブルク帰郷 ・ザルツブルク宮廷楽団に再就職 | |
1781年 (25歳) | ・ザルツブルク大司教コロレドと決裂 ・ウィーンでフリーの音楽家に ・コンスタンツェと交際開始 | ・前年(1780年)マリア・テレジア死去 |
1782年 (26歳) | ・ドイツ語オペラ「後宮からの誘拐K.384」」初演 ・コンスタンツェと結婚 | |
1783年 (27歳) | ・長男誕生するが2か月後死去 ・コンスタンツェとザルツブルクへ里帰りするが、父と姉とは和解できず(これが最後のザルツブルク帰郷) ・「トルコ行進曲付K. 331」作曲 | |
1784年 (28歳) | ・姉ナンネール結婚 ・次男カール・トーマス誕生 ・フリーメーソン加入 | |
1785年 (29歳) | ・父レオポルト、ウィーン訪問 ・父もフリーメーソン加入 ・ヴォルフガングと父レオポルト、最後の対面 ・モーツァルト人気の頂点 ・「フィガロの結婚」作曲着手 ・ハイドンに弦楽四重奏曲集を献呈。才能を絶賛される。 | ・フランスで真珠の首飾り事件 |
1786年 (30歳) | ・オペラ「フィガロの結婚k.492」初演。ウィーンでは期待したほど人気を得られなかったがプラハでは大成功 ・三男誕生するが死去 | ・サリエリとモーツァルトの「オペラ対決」 |
1787年 (31歳) | ・「アイネ・クライネ・ナハトムジークK. 525」作曲 ・プラハ訪問 ・オペラ「ドン・ジョバンニK.527」プラハ初演 ・長女誕生 ・父レオポルト、ザルツブルクで死去 | ・ベートーヴェン、ウィーンに一時滞在 |
1788年 (32歳) | ・「3大交響曲」(K.543/K.550/K.551)作曲 ・長女死去 ・借金を無心する手紙が増え始める | ・サリエリがウィーン宮廷楽長 ・オーストリアがトルコ戦争へ参戦 |
1789年 (33歳) | ・経済状況の悪化 ・ベルリン旅行 ・次女誕生もその日に死去 | ・フランス革命勃発 ・ワシントンアメリカ合衆国大統領就任 |
1790年 (34歳) | ・オペラ「コジ・ファン・トッテK.588」初演 | ・ヨーゼフ2世死去。弟のレオポルト2世が神聖ローマ皇帝に |
1791年 (35歳) | ・四男フランツ・クサーヴァー誕生 ・シュテファン大聖堂副楽長就任 ・オペラ「魔笛K. 620」初演 ・「レクイエムK. 626」未完のままウィーンで死去 |